航海 (四)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(13)

「スクネ様、いかがなされました。先ほどから太刀を眺めて尋常ではない顔をされていますが・・・。」イソラが尋ねた。きっと船酔いでもされたのかと思った。
「いや考え事をしていた。別に何でもない。」
・・・大きく時代が変わろうとしている。その中に吾は飛び込もうとしている。
どう流れを読みどう行動するかで、立場が大きく変わる。
油断せずに心して努めなければならない・・・。
船に揺られながらそのことばかりを考えていた。
「あと一息で政権が手に入るところまでいき、暗殺されたということは、その無念さによって怨霊となっているはずである。ヤマトタケルの霊が大白鳥に変わり、故郷のある西の空へ飛んで行ったという。残された息子である足仲彦王子は父の無念さをはらしたいと思っているはずだ。」と父は言った。
つまり今度、官として勤める成務帝のライバルとなるのである。
「もうすぐ穴門だそうですよ。」
イソラの声で我に返った。

航海の途中イソラは忙しい。船長の側でいろいろなことを教わっている。
将来の阿曇王になる王子であるから、船長としても期待をしている。
小さいころから見ているが、聡明であり腕白なところはあるが、明るくて周りの誰からも好かれている。他の船員にも気軽に声をかけ知らないことを質問している。みな喜んで教えていた。
潮の流れの見方、風の読み方、帆の張り方の加減など、イソラは楽しくてしょうがない。
生まれて初めての大船での航海であり小舟とは全く違う。縄の結び方などは独特のやり方があり、それを覚えるだけでも時間の経つのを忘れるぐらいで、気がつけば、一日の航海が終わろうとしている。
イソラは小さいころから小舟を操り、船の中で寝たこともある。
船酔いなどしたこともない。
渋い顔をしているスクネを見ていたずらっぽく笑った。

当時、関門海峡のことを「穴門」といった。
穴門とは、関門海峡から洞海湾にかけての狭い航路のことであり、調べてみると、本居宣長「古事記伝」に、「上代には此処長門と豊前とつづきたる山にて、その下に洞ありて、東西通り潮の通う道ありて、船も往来しらむ故、穴戸とは云うなるべし」と書かれてあった。つまり古代は陸続きであって、山の下に洞窟のような通り道が開いていただけだと言っている。それを仲哀天皇、神功皇后が開鑿して現在のように海峡になったというのである。
海峡が洞窟であったなどという真偽はともかく、神話として捉えると理解できる。
神功皇后は神であるのだから、大地を動かすことも可能なのだろうと信じていたのかもしれない。

この海峡を制する者は、「日本の海を支配することが出来た」という。
朝鮮半島、九州からの物流も武力も、関門海峡を通って瀬戸内海を抜けてヤマトへ行き着いていた。この地を支配していたのが最古の氏族、物部氏で、「瀬戸内海の王者・吉備の一族」だったと推理している。
仲哀天皇と神功皇后の宮として「穴門豊浦宮」という名がこの物語の後半に登場する。
関門海峡の下関側にあったらしいが、戸畑の洞海湾あたりだという説もある。
また、九州側には神武天皇が東征前にその準備をしたとされる岡田宮があった。
神武天皇は、岡田宮で一年を過ごし、安芸(広島)で七年、吉備(岡山)の高島宮で八年、その浪速に向かう。
余談ではあるが、神武天皇ははたして東征という目的をもって行動していたのか、私は疑っている。結果としてヤマトの地を征服したが、その過程を見ると、移住する土地を求めていただけのような動きなのである。
当時の航海は、潮待ち・風待ちが当たり前であり、平均すると時速五~十キロメートルの早さだったろうと考える。 対馬暖流は、対馬海峡の西水道(韓国側)と東水道(日本側)から入り込み、周期的に変化せず川のようにほぼ一定の速さで流れている。狭い西水道で最も速い流れは時速六キロメートルにもなるそうである。

穴門も日本海と瀬戸内海の入口に位置し潮流の流れが激しく、海人たちが最も緊張する難所である。一日に四回、潮の流れが変わる。岩場も多く、その判断と舵のとり方を間違うとひとたまりもない。
イソラたちは、航海の一日目、この穴門豊浦で錨をおろした。
順調にいけばその後、五日ほどで吉備国に到り、その後、風待ちしながら、五日ほどで河内に着く。
それぞれの場所で水の補給やら荷の上げ下ろしなどを行うため二日ほど停泊する。

ヤマトタケル (一)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(14)

ヤマトタケルの伝説については、スクネはその後もいろいろなところで話を聞いた。それほど有名な話であり、面白いほどに波乱万丈である。語る人のそれぞれの立場で解釈も違うし、何が本当なのかもわからない部分もあったが、ヤマト朝廷というものがどういうものか、政治というものがどれほど危ういものなのかがよくわかった。

≪革命の歴史について、私は述べたいと思っています。
その主役は、仲哀天皇と神功皇后であり、その革命の重要な脇役として、武内宿禰、そして阿曇磯良がいます。
その革命の発端となったのが、仲哀天皇の父、悲運の王子ヤマトタケルの逸話である。これを知らないと革命の背景がよくわかりません。
なぜ、「ヤマトタケル説話」が古事記に詳しく書かれているのか。それだけで一つの物語ができるほどで、「怨念」が新しい王朝成立の背景だと私は思っています。
重複する部分もありますが、ここでいろいろな「ヤマトタケル説話」をまとめておきます。
なお、『古事記』と『日本書紀』の説話は大筋は同じですが、主人公の性格や説話の捉え方や全体の雰囲気に大きな差があります。
ロマンを感じ悲劇性が強い『古事記』の内容を中心に述べるつもりです。
梅原猛作のスーパー歌舞伎で、この「ヤマトタケル」が演じられていますが、この内容と私の解釈は多少異なる部分があることを断っておきます。≫

この物語より、二十年ほど遡る。
時は景行帝の時代、当時は地方政権と中央政権の間はまだまだ不安定だった。
帝が若いころは自ら巡幸を行い、各地の氏族を従えたが、朝廷の勢いが強いときは貢納しても、中央権力のまとまりが悪いと、貢納をやめたり、言うことを聞かなかったりしていた。しかしそのたびに軍勢を差し向けるわけにも行かず、帝の代理ということで貢納が滞っている理由を糾す巡察使を派遣していたと思われる。
タケルというのは、将軍というような意味で、この巡察使を指すのではないかと思っている。
ヤマトタケルこと小碓命(オウスノミコト)が十五歳の頃、父の寵妃を奪った兄大碓命(オオウスノミコト)に対する父天皇の「命令の解釈の違い?」から、小碓命は素手で兄をつまみ殺してしまうという事件を起こす。
小碓命は、父からは疎まれて裏切られ続けるが、最後まで父の愛を求めていた。
この事件も、父に対してクーデターを起こそうとした兄を許せず、怒りに任せて起こした事件だったという説がある。 しかし、その本当の理由を父に言うわけにはいかないので言い訳をしなかった。そのため小碓命は父に恐れられ、疎まれて、九州の熊襲建兄弟の討伐を命じられたというわけである。
直接の原因は、父と子の間の女性問題だった。
景行帝の妃は数えきれないほどいて、王子の数も多く数十人いたといわれている。景行帝は旺盛な精力の持ち主であったその子の大碓命も父の血を受け継いでいた。
古事記には次のように記されている。
景行帝は、美濃国の国造の祖先である大根王(オオネノミコ)の娘、兄比売・弟比売(エヒメ・オトヒメ)という姉妹の容貌が美しいということを耳にして、御子である大碓命を派遣してたが、大碓命は、乙女達を自分のものとし結婚し、さらに別の女性を探し求め、その女性を天皇に偽って献上した。
帝も献上された女性が別人であると気づき、その偽りの姉妹をお召しになることはなかった。一方で大碓命はその姉妹を娶りそれぞれに皇子を生ませていた。
帝は、小碓命に「どうして、お前の兄は朝夕の食膳に出て参らぬのか。よくお前からねんごろに教えさとしてきなさい」と仰せられた。
兄は行けば殺されると思い、五日たっても大碓命は出仕しなかった。
そこで帝は小碓命に「どうしてお前の兄は未だに出て参らぬのだ。お前はまだ教えさとしていないのか」とお尋ねになると、小碓命は「すでにねんごろにおしえさとしました」と申した。
天皇はさらに「どのようにねんごろにおしえさとしたのか」と仰せられると、小碓命は「明け方に兄上が厠に入ったときに、待ち受けて捕らえて、つかみつぶして、手足をもぎ取り、こもに包んで投げ捨てました」と申した。
この「ねんごろに・・・」という部分が、「命令の解釈の違い?」なのかということになる。
兄の場合は自業自得かもしれないが弟は利用されただけである。
そして「兄殺しの罪」で都から遠ざけようとしたのが、本意だった。
小碓命も、父の寵愛を受ける兄に嫉妬していたのかもしれない。都合よく解釈した部分もあり、クーデターを止めるためだったのか、単なる思い込みだったのかわからない。また、帝の怒りに驚き、こんなはずではと思ったのかもしれない。
まだ十五歳の子供であった。

ヤマトタケル (二)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(15)

わずかな従者しか与えられなかった小碓命は、まず叔母の倭姫(ヤマトヒメ)が斎王を勤めた伊勢へ赴き自分の想いを打ち明け相談し、女性の衣装を授けられる。
ここに登場する倭姫は、卑弥呼の鬼道を継ぐ巫女であり、天照大御神の御霊である八咫の鏡を伊勢神宮に祀ったその人である。この時代に、伊勢神宮が創建されたということがわかる。
ヤマトタケルは熊襲の本拠地に単身乗り込んで、熊襲の親玉である熊襲タケル兄弟を殺した。
単身で敵の本拠に乗り込んで敵の親玉を討ち取ることなど常識的には不可能であり、普通、そんな仕打ちを受けたら、身の安全を図り父の元から行くえをくらます。父の本音はそこにあったのかもしれない。
しかし、十五歳の純粋な小碓命は、手柄を上げて凱旋すれば父はきっと自分を認めてくれると信じていた。
熊曾タケルらの家に着いて見てみると、その家のまわりを兵士たちが三重に囲み、室を造っていた。そして「新築祝いの宴をしよう」と言い騒いで、食物の準備をしていた。
そこで、その(室の)あたりをそぞろ歩きして、その宴の日を待った。
宴の日に小碓命は髪を少女のように垂らし、倭姫にもらった衣装を身につけ、すっかり美しい姿となって女達に紛れて祝宴にまぎれこんだ。
すると熊曾建の兄弟は、その乙女を見て大いに気に入り、自分たちの側に座らせて祝宴を楽しんだ。
小碓命は舞を披露し、熊襲たちを酔わせて、宴がたけなわになった時になって、懐から剣を出して、熊曾タケルの衣の襟首を掴んで、剣でもってその胸から刺し貫いた。
その時、その弟タケルは、見て怯えて逃げだした。
小碓命は剣を振りかざして叫んだ。
「我はスサノウの化身なり、近づくものはすべて死ぬ。」
部下たちは、荒ぶる神スサノオの化身と考えて金縛りになったように動けなかった。
あまりにも勇敢でしかも智略に富んでいたので、熊襲たちは小碓命をただの人間ではないと思ったのだろう。
荒ぶる神に逆らえば、命はない。偶然というより運が良かった。
そこで弟タケルを追いかけてその室の階段の下で、その背中を掴んで、剣を後ろから刺し貫いた。
ここでその熊曾タケルが「その刀を動かしたもうな。私は申すことがある」と申し上げた。そこでしばらくそれを聞き入れて、押さえつけ伏せておいた。
すると「あなた様はどなたなのか」と申した。
「我は纒向の日知ノ宮にて、倭の大八島国全土をお治めになる、大帯日子押知別天皇の御子、名前はヤマトオグナだ。手前ら熊曾タケル二人は、服従せず無礼だとお聞きになって、手前らを殺せとお言いになって、遣わされたのだ」とおっしゃった。
なぜ、偽名を使ったのかというのがわからない。単に、後で仇討をされるのが嫌だっただけかもしれない。
そこで、熊曾タケルは「本当にそうであろうよ。西の方に我ら二人以外に、勇猛で強い人はいない。けれども大倭ノ国に、我ら二人以上に勇猛な男がいなさった。そういう訳だから、私は(私の)名前を献上しよう。今後は、倭タケルの王と称えるがよい」と申し上げた。
その事を申し終えたので、たちまち熟れた瓜のように断ち斬って殺した。
そういう訳で、その時から御名を称えて、倭建命という。

名という言霊を受け継ぐことで、その魂を受け継ぐということだろうか。古事記によると、この熊襲征伐に関しては、「西の方に・・・」と書かれていて。九州に関係するような地名は「熊襲」というだけである。また、征伐と言うようなものでなく、単身で乗り込んで熊襲タケルを殺したというだけの話である。

その後、帰る途中に、山の神・川の神・穴戸の神(海峡の神)を平定したとある。(九州の平定を意味する)
なお、帰路での出雲タケルに対するだまし討ちの話は、卑怯極まりないもので、相手と親友になって信頼させ、剣を取り替えさせ、偽の剣を与えて、勝負を挑み殺してしまう。

ヤマトタケル (三)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(16)

凱旋した小碓命に対して景行帝は、信じられないような命令をする。
『東の方十二道の荒ぶる神、また伏はぬ人どもを、言向け和平せよ』と、蝦夷征伐を命じた。
父を信じ、父に認められるために命を懸けて戦ったという想いは純粋ではあるが、いかにも子供っぽいという感じを受ける。
途中、伊勢に立ち寄り叔母の倭姫に、「まったく私なんか死んでしまえとお思いになっていらっしゃるのです」と死地に追いやられる無念を洩らすと、天叢雲剣(クサナギノツルギ)をお授けになり、また、袋をお授けになり「もし火急のことがあれば、この袋の口を解きなさい」と仰せになった。
この剣はスサノオが八岐大蛇から取り出した剣であり、軍事的覇権の象徴であり、ヤマトタケルがスサノオの化身であるという証しになる。この天叢雲剣は神剣であり、この剣を持ったものが覇権を打ち立てることになる。

伊勢から尾張国に着き、尾張国造家の美夜受比売(ミヤズヒメ)の家に泊まり、比売と結婚しようと思ったが、再び帰って来たときに結婚しようと約束して、小碓命は東方に向かい、山河の荒れすさぶる神々と、服従しない者どもを平定していった。

この後、有名な純愛物語が語られる。
熊襲征伐の時、叔母の倭姫より、女の衣装と短剣を授かり西国へ旅立ったが、この時、衣装と短剣を運んで来た美しい巫女が弟橘姫(オトタチバナヒメ)であった。
熊襲征伐後、今度は蝦夷征伐を命じられ再び伊勢に立ち寄った時、倭姫命につかえる弟橘姫は、すべてのことを知って毎夜、小碓命の為に涙していた。
そんな弟橘姫のことを気づかぬはずもなく、二人は激しい恋に落ちたが弟橘姫は、神に仕える身であり許されるはずもなく、小碓命は、未練を断ち切って東国に旅立つ。
ところが、尾張の国に滞在中、ぼろぼろになって涙を流して「一緒に連れて行ってください、召使いでけっこうですから」と弟橘姫が後を追ってきたのである。
夜陰に隠れて仕える倭姫に心の中で詫びながら、飛び出て来たにちがいない。小碓命の心の中に熱いものがながれたが、弟橘姫のことを考えると帰したほうがよいと冷たくあしらうことにした。
しかし、弟橘姫は、道行心中の覚悟でついてきている。
このまま生き別れするぐらいなら、皇子について行って、一緒に死のうと。

そうして相模の国に着いたとき、国造が欺いて、「この野の真ん中に大きな沼があります。この沼の中に住んでいる神は、たいへん荒々しい神なのです」と申し上げ、小碓命はその神を御覧になろうと野原に入っていった。すると国造は氷を野に放ち小碓命を焼き殺そうとした。
「騙された」
その時、罠にはまった小碓命を助けようと弟橘姫が現れた。
小碓命の後を後ろから追いかけていたのである。
しかし、火に追われ煙で見えなくなり、はぐれてしまう。
絶体絶命のピンチになったとき、小碓命は弟橘姫の名を喉が張り裂けんばかりに呼んだ。死の間際で命がけで最愛の姫を助けたいと思った。
・・・野が燃えて絶体絶命、遂に共に死ねる時が来た・・・
弟橘姫は、そう覚悟した。その時、皇子の声がした。
「弟橘姫―――!」存在のすべてをかけて自分の名を呼んでくれている。
「これでもういい。何時でも死ねる。」

小碓命はふと思いつき、火急の中で叔母の倭姫から授かった袋を開けてみると、火打ち石が中に入っていた。そこで、まず火を剣で刈り払い、火打ち石で火を打ち出し、火勢を退け、野に戻り、国造らをすべて斬り殺して、死体に火を放った。
それでこの地を焼遣(焼津)という。神剣や神石で守られたという伝説である。

その後、焼津から海を船で渡っているときに嵐に遭い、海の神から最も大切なのものを犠牲に捧げるように要求された。弟橘姫はもう何時死んでもいいと思っていたから、最愛の人の為に死ねるのなら本望だと自ら望んで海に入った。

この時、美しい別れの歌を歌います。
「さねさし 相模(さがむ)の小野(おの)に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも」
「あの時、燃えさかる火の中で、私の安否を気遣って下さった君よ」
「愛する人の為に生き、愛する人の為に死ねたら、それで十分幸せです。命の長さも、名誉や地位も財産もどうでもいい。」
あの時の優しい気遣いに対する感謝の気持ちを歌ったものです。
「いけにえ」という酷い運命を進んで自らに受け入れ、恐らくはこれまでの人生で最も愛と感謝に満たされた瞬間の思い出の歌。

それから七日後に、弟橘姫の御櫛が海辺に流れ着いた。
そこで小碓命はその櫛を拾い、御陵を作ってそこに収めた。

ヤマトタケル (四)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(17)

関東地方まで平定を終えて、帰路について尾張の国造の館に立ち寄り、美夜受姫と再会する。往路の際は、はばかって美夜受姫を抱かなかった。
帰りは弟橘姫も亡くなり、やっと戦果を挙げて凱旋ということもあり、抱きたい気持ちは大いにあった。
≪男にも純愛を求めるのは・・・、無理なのか。≫
それは美夜受姫にすれば尚更である。
尾張の豪族の娘であり中央政権とのつながりを持つために娘の結婚を利用しようとして、父は娘を箱入りにして、他の男性を近づけないようにしていた。
尾張に立ち寄る皇族は滅多にいないし、この機会を逃したら次は何時になるか。
小碓命にしても政略上、尾張の豪族との関係を固めることは重要である。
しかもこの時、都では裏で画策していた皇后が亡くなり、小碓命の凱旋を歓迎するムードが高まっていた。
景行帝も小碓命を頼ろうとしていた。
今では、小碓命は実力、名声、実績共に抜きんでており、他の王子を圧倒している。
凱旋すれば政治の実権を掌握できる状況にあった。特に熊襲や蝦夷を平定したヤマトタケルだから、安定した政治が望める。有力氏族もすり寄ってくる。

尾張でせっかく婚姻のムードが高まっていたのに、美夜受姫の裳裾(すそも)に月が立った。つまり美夜受姫はせっかくの大舞台に月経になってしまった。
しかし「月が立った」にも関わらず、小碓命は我慢できずに交わってしまった。
この情事が物語りの暗転のきっかけとして描かれている。

尾張の国造の館に父帝から書状が届いていて、最後に「伊吹山の山神とその手下の鬼達を退治して欲しい」という願いが書いてあった。
それであくる朝伊吹山に出かけるのだか、なんと剣を置いて行ってしまったのである。
 『古事記』には素手で殺せると思ってでかけたことになっている。

山神たちはヤマト政権に対して激しい憎悪を抱いており、ヤマトタケルが天叢雲剣を置いてくるのならヤマトタケルに一矢報いる最高のチャンスと捉えて、玉砕戦法でヤマトタケルを襲った。特に雹(ヒョウ)を降らせる作戦が功を奏し、ヤマトタケルは深傷を負い、高熱をだす。

ヤマトタケルは天叢雲剣と一体ではじめてスサノオの化身として不死身で、絶対負けない存在で有り得たわけであるが、剣がなければ荒ぶる神では有り得ないということになる。それでついに最後の最後で敗れてしまったのである。

≪古事記全体の中でもこのあたりが最大の山場ではないかと思う。≫

ヤマトを目前にして三重の能煩野で亡くなるが、そのときに国偲歌を三首歌う。

一つ目は「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し うるわし(ヤマトは素晴らしい国だ。重なり合って、青垣のようになっている山々に囲まれたヤマトは実に麗しい。)」山林に幾重にも囲まれているというイメージ、故郷を懐かしむ気持ちがあふれている。

二つ目は「命の全けむ人は、 畳薦 平群の山の 熊白儔が葉をうずに插せ その子。(命に溢れている人は、山深い平群の山の熊のように大きな白儔の葉をかんざしにさしなさい、お前たち。)」。
元気で長生きできるという言い伝えを、迷信だと馬鹿にして、挿してもらっても、引き抜いて棄ててしまう。ちゃんと樫の葉を挿しておかないと、命は危うくなってしまうと教訓として語っている。

三首目が「はしけやし 吾家の方よ 雲居起き来も。(なつかしいわが家の方から雲が立ちのぼっているよ。)」です。
雲は霊を意味しているから、家族がそこに生きていることを雲を通して感じている。
家族の霊が帰っておいでと呼びかけているように見えたのかもしれない。
死を目前にして我が家に帰りたいという想いがひとしおになっている。もう地位も名誉も富も理想も考えず、ひたすら家族のぬくもりを求めている。
そしていよいよ臨終というときに、歌ったのが次の歌。
「嬢子の床の辺に わが置きし 剣の太刀 その太刀はや」
(美夜受比売の床のあたりに置いてきた草薙の太刀、あれさえあればこんなことにはならなかったのに)

能煩野に墓が作られるが、そこからヤマトタケルの霊は大白鳥になって飛び立つ。
ここで物語が終わる。

ヤマトタケル (五)

≪歴史小説≫阿曇磯良伝説、立志編(18)

大白鳥がヤマトタケルの霊そのものを表している。→「白鳥伝説」
万物に魂が宿っているという信仰があるが、魂は物質ではなく、物質に宿る精神的実体そのものであると考える。
魂とは、身体一部でありその中の不滅の部分と考えればよい。
身体が滅んでも魂の部分は不滅であるから、身体から抜け出し、その肉体という束縛から解放された魂は、さまざまに変態して霊界を目指す。そしてある目的をもって、今度はこちらの世界に戻って来る。つまり母胎に入る。これが輪廻転生の考え方である。

ただヤマトタケルのようにこの世に遂げられなかった想いを強く遺している霊は、霊界には向かわずに、この世に踏みとどまっていようとする。 この怨霊という考え方、祟りを恐れるというのが日本の古代史の一大テーマとなっているのではないかと感じる。
日本書紀には、簡単に、父である景行天皇は大いに嘆き悲しみ、ヤマトタケルのために武部(タケルベ)という役職を定めたとある。実は、祟りを封じ込めるために忌宮などを造り祀る。つまり社に封じ込めるというのが神社の始まりではないかとも思う。
そして、古事記の中にこの物語が書かれている意味は、そのヤマトタケル霊が次の王朝の祖となる神功皇后の中に入ったと言いたいからではないかと想像している。
これで霊線が繋がる。

以下、想像になる。
この世に想いを残した怨霊である大白鳥がどこに行くのか。
大白鳥は西の空に飛んでいき、河内の志幾(大阪の八尾市)に留まる。その西に河内湖があり、そこに東から旧ヤマト川が四本に分かれて注いでいた。
河内湖や周辺の湿地に白鳥が生息していたとしたら、河内から出征した物部氏の兵士たちは、遠い熊襲や蝦夷の地で傷つき、斃れて、魂が白鳥になって河内湖を目指して舞い戻ってきたということになる。
物部氏は自分たちは白鳥の子孫だと思っていたからである。少なくともそこに住んでいる人たちは、白鳥をそういう目で見ていた。ヤマトタケルの白鳥伝説もこの物部氏の白鳥伝説がベースになっていたと想像する。
 ヤマトタケルが亡くなった時に、当然、景行天皇は存命で、天皇没後成務天皇が即位した。
その後にとっくに死んだはずのヤマトタケルの第二子である足仲彦(タラシナカツヒコ=仲哀天皇)が誕生している。
なぜそんなことが分かるかというと、成務天皇の即位四十八年に足仲彦が三十一歳だったからである。それは仲哀天皇の即位を後にずらすためで、そうしないと成務帝と仲哀帝が同じ時期に帝位についていることになるからである。 このため、仲哀天皇架空説というのもある。
それによると、仲哀天皇は実在性の低い天皇の一人に挙げられているが、その最大の根拠は、彼が実在性の低い父(ヤマトタケル)と妻(神功皇后)を持っている人物であり、この二人の存在および彼らにまつわる物語を史実として語るために創造され、記紀に挿入されたとする。
つまり事実は、成務帝は志賀高穴穂宮で、仲哀帝は長門豊浦宮、筑紫香椎宮で天下に号令していたのである。
ということはヤマト政権に対して筑紫勢力に擁立されてヤマトタケルの息子が対抗していたことになる。
ここが、この物語のポイントとなる。

九州各地にゆかりのある神功皇后は多くの神社に祀られているという事実がある。
それだけ見ても実在していなければおかしい。
大白鳥が怨霊としてこの世に未練を残しているのだから、なんとしてもヤマトに帰りヤマト政権を奪い取りたいと思っているはずである。そこで大白鳥が霊を誰かに引き継いでもらい、それを引き継いだ人が天下を取るという形で続いていくことになる。
これで物語が繋がる。それでヤマトタケル説話は、神功皇后の説話へと続いているのである。
とすれば、大白鳥は河内葛城に飛んでいったはずである。なぜならば、神功皇后になる気長足姫の母親、葛城高額姫(カツラギタカヌカヒメ)は河内葛城に住んでいたから。
なお、葛城氏は、実在が確認出来た日本最古の豪族である。
五世紀前半倭の五王の時代の人物とされている葛城襲津彦は、朝鮮半島でも活躍しその記録が、朝鮮の古書に記されている。
葛城氏は代々天皇に妃を入れてきたことで外戚豪族として力を延ばしてきたが、同時に近江湖北地方に基盤を置く息長一族とも縁戚になることで息長氏の影響力も次第に強まっていく。
息長宿禰王に嫁いだのが葛城高額姫で後の神功皇后を生んでいる。
この地が、葛城一族の発祥の地である。

長々と横道にそれたが、物語の本筋に戻る。
イソラが生まれた頃のヤマトの話である。